この頃、競輪場に近い赤淵橋そばに尾崎士郎氏が住んでいました。
安吾と親しかった作家で「人生劇場」の作者です。
伊東に住む前、安吾は尾崎氏の紹介で肝臓先生と出会っています。
肝臓先生とは、伊東に実在した天城診療所の佐藤清一先生です。
昭和24年の12月中旬、天城先生のところに安吾から使いが来て
「坂口先生が肝臓先生という小説を書いた。そして小説の中で
肝臓先生は死んでしまうのですが、作の中で死ぬことは長生きすること
になるんですから、どうぞ気にしないでください。」
と了解を求めに来たのだそうです。
天城先生が同人雑誌「山彦」に連載していた同名の「肝臓先生」を読んで
非常に感動して天城先生をモデルに小説を書いたというのです。
昭和25年正月号の「文学界」に発表された安吾の「肝臓先生」を読んだ
天城先生自身もたいへんに感動されたそうです。その後、偶然往診の途中に
坂口先生に呼ばれてお目にかかり、あの小説は泣かずには読まれなかったと話すと、
坂口先生は
「誰が何と言おうとも、あなた一人が泣いてくれれば私は満足です。
私も涙を流しながら書いたのです。情熱だけで書いたのです」とおっしゃり、
どれだけ感謝したことかと 述懐されています。
それから安吾の肝臓炎の治療に通うようになるのです。
坂口三千代著「クラクラ日記」の中にも肝臓先生は、毎日のように来て
夫婦と高橋青年に肝臓が悪いと言ってブドウ糖の注射をしてくれたと書かれています。
天城先生によると、安吾もだいぶ肝臓が腫れていたそうです。
安静が大事なのですが、命がけで執筆する姿を見ては言えなかったそうです。
天城先生は、先に疎開していた尾崎士郎氏と親しかったので、
良いウイスキーが手に入ると、2人を招いてご馳走し一緒に楽しんだりする仲だったようです。
お二人共たいそうな酒豪だったので、大変喜ばれたそうです。
ちなみに尾崎氏は安吾の8歳上、天城先生はちょうど10歳年上です。
天城先生の記録には、伊東に初の児童図書館を作る際に尾崎氏が多大な本の贈与と
寄付金で貢献して下さったこと、また坂口安吾氏も寄附金と共に協力してくださった事や
当時の伊東の事業にも寄附金の欄にお二人の名前があります。
残念なことに、伊東市民でも知っている人は少なくなっています。
感謝の気持ちを忘れずに次の世代にも伝えてゆきたいと思います。
今はもう診療所はありませんが、当時門を入った所に「肝臓先生の碑」がありました。
碑面には安吾の小説「肝臓先生」の一部もあります。
今は移設されて、カネセンのそばにある、伊東図書館入り口にあります。
お近くにお越しの際は、ご覧になってみてはいかがでしょうか。
実は、カネセンは先代の時から天城診療所に干物を納めていたのです。
天城診療所は、宿泊施設もあり全国から来る患者さんでいっぱいでした。
先生の本の中にも、著名な方々が患者さんであったと書かれています。
私の知っているのは昭和60年代からの事ですが、
診療所では、退院する患者さんに鯵の干物をお土産にされたので
毎日のように朝使い用やお土産用の干物を配達していました。
大先生はもう引退されていましたが、奥様は厨房を切り盛りして、
娘さんやお手伝いの方々と忙しく働いていらっしゃいました。
いつでも笑顔で上品な話し方をなさる優しい方でした。
ある時配達に行くと、診療所の玄関前に大きな車が停まっていました。
その横に毛皮のロングコートを着て、手にいくつも大きな指輪をした男の人が
立っていたのです。若かった私は本当に驚いたものです。
この頃カネセンはまだ海岸通りにありました。
坂口安吾の住んでいた場所だったと知ったのは、店を移転してからです。
つくづく不思議な縁があるものですね。